輝きながら進む80代美人ママ経営の媚を売らない文化的スナック


文化的スナック瞳

時代の変化を敏感に捉えては変わっていく。

スナック瞳オーナー 森谷 一美

大阪の天神3丁目、OAP、帝国ホテルに向かって抜ける道、商店街が見える場所に会員制スナック「瞳」があります。
黒を基調とした和風テイストの店内には、カウンター10席とテーブル席がひとつ。基本料金は、チャージ料3000円とリーズナブルです。
お客様主役の空間、季節の風物詩を愉しむ等、お酒無しでもほっと寛げる空間を作って差し上げることモットーにしています。
現在82歳のオーナーママの森谷一美さんは、この場所で36年間店を続けてきました。

スナック瞳ママインタビュー
毎日活けたお花をお手入れします。

要約(目次)

「歳を重ねた分だけお客様の気持ちに寄り添った接し方ができるかしら。」

今回の取材は、女性の大先輩として生き方のヒントになるような内容を存分にキャッチしたい思いで臨んだのです。

森谷さんのこれまでは、竹が節を作って伸び続けるようにいくつかの大きな転機を経てきました。

昭和32年頃、初めの就職は、大手化粧品会社でした。会社は起ち上げ期だったので美容部員として全国を廻って営業しました。
「仕事をさせていただきながら全国を歩いて社会を見ることができたのです。お客様も余裕のあるレベルの高い人たちなので勉強になりました。」

23歳で結婚。価値観の違いから3年で離婚します。
その後30歳で区切りを付けるべく、半分勤務状態だった会社に正社員で復帰することになります。
「再婚の話もありましたが、社会的に独立したい想いが強かったのです。それに何しても儲かる時代でした。」

大木のようになりたいなら無駄な枝葉を切ることから

昭和40年代に入ると飲食業に参入しオフィス街ビルの店舗の経営権を買いました。

兄弟にも手伝ってもらいつつ16年間喫茶店と食堂経営を続けました。まだ喫茶店のコーヒー代が80円ぐらいの時代です。そして土曜日も会社勤務がある時代でしたね。

ここでの経営権は、昭和56年までのものでした。

――――化粧品会社時代の次が飲食業参入で16年、その経営が終了され2つ目の節目だったのですね。

その次の構想として、家賃を払わずに仕事できるものをということで、それで昭和56年に経営権と当時住んでいた家を売却して、今の家(現在のスナック兼自宅)を購入したのです。

でも元々ここは、美容院をするつもりでいました。一年美容学校に通ってインターンで働きだしました。
すると天神3丁目から南森町あたりまで美容院が3店舗しかなかった状態が、いざ開業しようかと思うと7店舗に増えていました。それでリサーチしましたらまだ修行しなければいけない身で、競争の激しいなか余裕のある生活は難しいと考えなおしました。

夜の仕事にどっぷり浸からず、文化や宗教や美術を取り込んだ生活を

その頃、精神面で色々学びたいと思い始めて様々な勉強をしながら仕事していくには、昼の時間を有効に使える夜の時間に仕事をするのがいいのではないかと発想を切り替えました。生け花、茶道、歌、書道、沢山趣味の勉強をしたかったのです。

私は元々、人付き合いが得意ではなかったですし、ビールの注ぎ方、煙草の付け方も知らなかった。でもプロのお店で修業された方の真似は出来ないですし、自分は自分色でいいんじゃないかと思うのです。好奇心の赴くままにその時を精一杯生きていきたかったわけです。

季節ごとの風物詩をカウンターに演出して目の保養と話題のきっかけにも

――――どんなお客さんが多かったですか?

環境も良かったし恵まれてきました。開店当時は特に個人でいらっしゃる方は少なく予約制で会社単位で来られましたね。お酒の場でありながら仕事の話もする。
上司が部下に仕事のアドバイスをしたり、悩みをきいてあげたり。

元々、ここスナック瞳は女性の色気を売り物にする店ではないのです。 当時からお客様の空間を提供し、お客様同士が交流できる店でした。 会社の会合で料理屋さんで食事してもなかなかじっくり話せない。だからその後、リラックスして立ち寄る空間が求められていたのです。

17年前 スナック瞳のママ
見せていただいた写真は、17年前。綺麗な60代では済まない、貫禄溢れ、気合入ってます

――――昭和のその時期は、飲みながらお仕事の話をすることも多いゆとりのある時代でしたね。いい意味で会社に守られていた時代です。

様々な職種の方がいらっしゃいましたよ。女性の方も多かったです。皆さん、会話を求められていました。その後、バブル崩壊で社用族の方も減り、震災があり、日本社会は激変しました。
この店が持ちこたえられたのは、家賃がいらない心の余裕があったからですね。 現在のお客様は、話をしたり、カラオケをしたり発散しに来られる方が多いです。カップルで来られたり、夫婦別々でお越しになったり海外の方も来られますよ。酔っぱらう人は入れないですし、夜12時には閉店です。

明るい照明のお手洗いに入って、ふとこの文字を見るとはっとしますね。

バブル崩壊時も持ち堪えて長く続けてこれたわけ

人生は、ギリギリでスタートダッシュしなければいけない時期があるのとゆとりを持って年齢に応じた動きをしていかないといけないですね。

―――――仕事の形を変えながら事業を長く続けてこられた秘訣は?

アクセルを踏むべき時、ブレーキの踏み時は、世の中を読みながら判断していかないといけないですから、つくづく難しいなと今になって思います。

仕事中心の生活もいいですが、やはり文化を大切にしたいものです。益々国際社会になっていくわけですから。

昼間の私は、呉服屋さんの展示会のお手伝い、お花のお稽古をしてはお店の飾りつけに活かし、骨董屋さんで本物を見る目を養います。

仏教の勉強等で師匠を持ち、大勢の人の話を聴き、自己流に陥らないように。伝統のあるものは、間違いのない支えになります。
私は、日本海のように美味しい魚は沢山釣れても荒々しい波のある生き方は合わないのです。湖のように表面が静かに映るような生き方になるように努めてきました。

―――――決断が早く、あまり回り道をされてこなかった印象で少し驚きます。自分で事業をされている方はやはり波は大きくなりがちと思うのですが、不調な時は、どうされていましたか?

40、 50、 60代と節目があるわけですから、節目ごとに考え方を変えています。体力と環境、つまりお客様の層も変わっていくので、それに逆らわず、同化していく訓練をしています。自分はかくあるべきという芯を持ちながら、周囲のざわめきに流されない姿勢です。これもまた難しいことですが、お陰様で沈む前にブレーキを踏んできました。

――――お母さまはどんな方でした?

母は、専業主婦でしたが、責任持てるなら好きなように生きたらいいと言ってくれていました。祖母は、都島区に借家を持ち、家賃収入を得ていましたね。夫を早くに亡くし、いわゆる後家さんだったのです。
そして父は養子なので、代々、女性が家を継いできた家系なのですよ。


「間」が足りない現代社会には、もっと会話する場を

――――今、日本は、特に若い人の自殺が増えています。それについてどう思われますか?

今は、すぐ答えを求められる社会になってしまっているでしょ。IT化が進んで便利になった分、「間が無い」のです。何かあれば、すぐ関係を断ってしまうような人間関係もそうです。
身近に百人百様の生き方があると知ることのできる機会があればいいのです。それには、多様な考え方を受け入れるための会話が圧倒的に足りないですね。

――――日頃の心掛けていることやポリシーは?

人間関係でも仕事でも「私はいつまでも輝き続けたい」という思いをもちながら進んでいきます。

編集まとめ

どのぐらいのことを成し遂げたか、いくら稼いだかで成功が語られることは当然のことですが、今回語ってくださり印象的だったのは、人間の内面の充実や文化を大切にしながら働いてきたことが「思い描いていた通りの贅沢な人生」になったと断言されたことです。 思いっきり贅沢な人生ってどんなのだろうと自分流に思い描きたくなりませんか?

そして、すぐ答えを求められる社会については、自分もまた問題のある「間が無くなりがちな」人間関係に陥っていることに気づかされざるを得ませんでした。
SNSの発達は多大な恩恵をもたらしましたし、便利なアプリですぐ連絡できるようになりましたが、人との距離の取り方は、決して容易くはありません。
不愉快に感じたり感じさせた一言、あるいはささいな誤解が原因で関係を切ったり、切られたりは日常茶飯事。周りを見ても反論や誤解は、言葉を尽くして説明する以前に煩わしいか諦めの気持ちからか、無視するか、拒否するかでやり過ごす傾向があります。
他人は、自分とは違うという許容と思い通りにしようとしない寛容さがあれば、社会生活ももっとしなやかに保っていけるのかもしれません。

Written by Sumiyo Miyazaki


編集者インスタグラム
https://www.instagram.com/changeview/
極めるWOMAN Facebook
https://www.facebook.com/womaninterview/
極めるWOMAN編集者Twitter
https://twitter.com/changeview