好きなことで喰っていかなくても好きなことをやれる仕事をすること(昭和の母編)


前編は以下リンク先です。

好きなことで喰っていくということ(昭和編)

4人目に産まれたのがまた女だったから(昭和母編)

昭和10年代生まれあたりの私の母親世代で働いていたのは、シングルマザーか、自営の妻、医者、弁護士、教師などの高給スペシャリストが多かったのではないでしょうか。現代の女性のように経済的理由からやキャリア継続のために出産しても働いているのは少数派の時代です。
私の母親世代の社会生活を辿ってみて、変わってきたことと当時の女性に対する偏見、刷り込みが今もなお残っていること感じます。
普段、当たり前に感じていることが、単に歴史の中での刷り込みなんじゃないの?ってことは沢山あるのではないでしょうか。

 
まずは、わかりやすく自分の母について書いてみます。
うちの母は、4人姉妹の末っ子で、呉服屋で跡取りが欲しかったのに男が産まれないということで、五歳の時に子宝に恵まれない叔母の養女になりました。当時の考え方から跡取りにならないなら養子に欲しいというようなことは、珍しいことではなかったようです。
 
のちに「よく5歳まで育てた子を人にあげるなんて鬼みたいなことできたもんだ。」「せめて金持ちの家か頭のいい親に貰われたかったのにどっちも無し。」と母親から聞かされました。
言うことをきかないと火鉢の熱い箸を押し当てられたことがあるらしく、「そんなので言うことをきくと思う頭の悪さ」が許せず、大人になってから養母、つまり私とも同居してたばあちゃんをある意味、軽蔑気味に扱っていました。子供の頃、折檻された記憶は、死ぬまで深い傷となってフラッシュバックすると何人かから聴いています。
とはいえ、身長が145センチぐらいしかないばあちゃんに良い既製服が無く、母は、ほぼ手作りで洋服や着物を沢山作ってあげていて、憎しみを超えた愛情の深さを私は身近に感じとる日々でした。
 
それにしても母は、グレずに優等生だったと評判だったらしいし、真っ当な上昇志向から共働きで家も2度建てたし、母親の激しい努力と偉大さをいまだに思い知らされます。
 
 母は、ばあちゃんよりかなり先に他界しました。
 
ばあちゃんは、改めて思い知ったことでしょう。どれだけ良い娘に恵まれたか。
晩年、モーレツに働くことから降りて専業主婦になっていた母の葬式に100人を越える知人友人の方が来てくださいました。母の人柄がわかる光景でした。
その後、ばあちゃんの身元引受人は私になりました。
 
母の幼少時代の屈折した生い立ちからの上昇志向というのは、過剰な完璧主義で自分の理想を娘にも押し付けることになるのか、理不尽で悪い意味で躾が厳しく自由を奪われました。
 
今でも人からどう思われるか気をつけた方がいいと言われることも少なくない私なのですが、母親からは、世間からどう見られるかを重要視するよう諭されましたので全然教育の成果になっていません。全て反動です。
 
元々を辿れば、女だから跡継ぎできないという昔の因習が、様々な確執の元にもなっているので、潜在的にジェンダーの問題に敏感なところは受け継いでいるようです。
 

恵まれない幼少時代を取り返すかのように

当時の昭和のお母さんのほとんどが、小学校の参観日に着物を着ていました。ハレの日のお洒落というのではなく、着物は日常に溶け込んで、私が起床する前に起きていなかった母を見たことがないし、よく着物をきちっと着て台所に立っていました。半裸で起きたまま昼近くまでうろうろする母親をやっていた私に比べれば、考えられないほど大違いです。

小学校から帰宅すると大体、いつも謡の練習をしていました。腹の底からうなるような声に、友だちは、「お経みたいなのよんだはるよね?」と言っていました。

仕事は、勤めに出たのは独身の頃のみで、母は、自宅にて損害保険の代理店を看板を掲げずやっていました。
お客さんや会社からよく電話が掛かってきていましたが、趣味活動は全力投球の姿が印象的で、謡に限らず常に何かしらの趣味や勉強に没頭していました。

そんなに趣味に全力投球するのには、子供の頃に一切習い事をさせてもらえなかった渇望感があったからのようでした。踊りを習いたいと言えば、芸者になるわけじゃあるまいしと言われ、ピアノを習いたいと言えば、ピアニストになるわけじゃありまいしと言われたそうです。年頃になると働いたお金も定期代等以外は家に入れるようにしなければいけなかったようで、化粧品のいいのを買う贅沢もできず、失われた青春だったのです。
それが結婚して安定したサラリーマンの伴侶との生活で叶ったのです。
母の情熱と学ぶ意欲は、母親になってから爆発したのでしょう。

損害保険の外交員の仕事をしているので、それなりにいい車を乗っていないとということで、夫婦それぞれの車がありました。父は、大手企業のサラリーマンでしたが、アジャスターといって事故車の損害調査をする仕事をしていました。父母それぞれライバル会社でした。
一度、査定に不満がある母のお客さんが、電話で罵詈雑言怒鳴り散らしてきたことがあり、家に火を付けてやるというレベルまで言ってきたので父に代わって収めたことがあります。
「女だと思ってバカにしとる。」全然怖がることもひるむこともなかった気丈な母でした。

当時、損害保険の仕事は、なかなか好景気だったようです。
同業者の集まりに行った時の写真を見せてもらうと男性ばかりのなかに母はいました。165センチという当時の身長の高さからそれもなじんで見えました。好景気ながらアフターケアの大変さ等、仕事の大変さは勿論のこと、矛盾を感じたのは、それだけ自分が誇りを持って仕事をしているのにも関わらず、子育てや娘の将来に関しては、古臭い考え方しかできない人でした。
漫画は悪、深夜ラジオも悪、映画館も不良。漫画大好きの姉は、いつも勉強部屋から漫画を没収され階段から引きずり降ろされ泣きわめいていました。
思春期の私の服装を毎朝玄関でチェックしてボタンを上まで止めろと強制することも日常でした。
また、女性の幸せは、安定した結婚をして専業主婦になることと言いきっていました。

異常なまでの束縛は何なのか?私は子供のいる歳になってもずっと思い出しては考え続けてきました。
たぶん、ものごころついてから育ての両親の教養の無さや自分だけ(男子ではないので)もらわれていった境遇に対する恨みのようなものが、必死で優秀な学生になろうとするエネルギーになっていたのかもしれないし、コンプレックスを克服するには、経済的にも精神的にも豊かな家庭を作ること、それも世間から見られて良しとされることだと、そのために必死だったのでは?という思いに至りました。

つづく