好きなことで喰っていくということ(昭和編)


個人blogですが、母娘関係やジェンダー問題等、普遍的なテーマを掘り下げるための一つとして自分のことを晒しています。

好きなことばかりやって!と否定し続けた母が、本当はやりたかったこと(前置き編)

時々、思い出したように仲間の女性数人で盛り上がる話題は、あの木嶋佳苗や小室圭さんママのこと。

あくせく働くことなく片方は非合法で片方は合法で余裕ある生活。才能なのか生態なのかどんな努力なのかってことでセミナー開いてくれたら行きたいよねって。

そんな時に普遍的な女性テーマや随分昔に亡くなった自分の母親を思い出します。
そして、このサイトでインタビュー記事を書いてきたのも潜在的に、自分の母親との関係があるのかもしれないという考えに至りました。

私は、思春期の頃からどんなを仕事したら自分が食べていけるかとても真剣に考えていました。と同時に手芸や料理などが割と好きだったので専業主婦やりながら時々留学とかさせてもらえる生活ができたらそれもええなとなんとも都合のいいことも夢見ていました。

高1のときに美術研究所に入りました。美大受験のための塾です。石膏デッサンやヌードクロッキーをし、先輩達の習作を見ながら、頑張っても自分は大したところまでいけないことに数か月で気付きました。上達しようとか突き抜けようとするパッションもない。だって何をして将来稼ぐかを考えていたのであって、芸術を極めようと塾に入ったわけではないから。
中学までは、ドラクロワのフランス革命を模写するほど情熱があったし、常に学校の廊下に自分の絵は貼られていたし評価もされていたはず。今では画力は通信簿5→2ぐらいでしょうか。アドビソフトがないと何もできないかもしれません。

自分のこと以外に情熱が冷めたのは、たまたまその塾に面白い先輩や仲間が居なかったからかもしれません。あなた達、アーティストを目指してるんでしょ?なのに皆んななんて俗っぽくて、大したポリシーもなくてつまんないの?って。あ、単に芸大ステータスや美大に入れればいいだけの人達か。本当つまらない。
中身のある人って少し喋ればわかるじゃないですか。

マスでお金稼げる仕事したいよなやっぱり。そう思ってファッションを勉強することに移行しました。

それは、世の中が欲するデザインが出来て、美しいパターンが起こせる職人になる勉強をすることでした。

結果、私の才能も実力も大したことはなく賞味期限は長くなかっかもしれませんが、就職先での時々のヒットや専門誌主催のコンテスト入賞で経済的に救われた日、その後、自分のギャラは自分で決めるフリーランスとしての活動がありました。

そして何よりもこの土台は、現在、人や物を見る時の付け焼き刃がそうでないかを判断する確固としたベースになっています。

しかしながら、当時の両親は、「あなたは好きなことばかりやって生きている!」
と非難してきました。好きなことで稼いでラッキーとは言ってはくれませんでした。
有名になってちやほやされて大金稼いでないならあなたの仕事は、成功していることにはならない、嫁に行き遅れる前にやめて真っ当に生きなさいと認めてはくれませんでした。20代半ばの頃です。

うんしん縫いからはじまって、寝る間も惜しんで洋服のデザインやパターンや縫製の課題を提出する毎日。世の中はキラキラ女子大生ブーム。

あくまで当時ですが、就職すれば、上下関係厳しい嫉妬の世界。

それでも好きな分だけ痛いことも仕方が無いと受け入れ、代償を払ってきたつもりです。それを我儘+要領が悪いだけで片付けられたような気になりました。

両親が推奨するのは、当時の男性受けする女子力磨きか、安定した公務員、教師、薬剤師などの安定した知的な専門職、スペックの高い男性のいる大企業OLになることだったのです。

どれにも当てはまらない、かすりもしない娘をさぞかし残念に思ったことでしょう。

就職した当初、仕事の悩みを相談すると営業の男性が私に向かってこう言ったことがあります。
「もう実家帰って業界から去った方がいいよ。水っぽい業界だから、真っ正直な君に向いてない、お嫁さんになった方がいいよ。」

「えーー!今までの私の努力は?!」

「いくらでも家庭の奥さんとして生かせるじゃない。旦那さんや子供の服作ったり。」

「そんな小さな家庭内のことに時間も労力も親のお金も費やしてきたわけではない!」

そして私の両親も全く同じことを言ってきました。「旦那さんや子供の服」と。なんじゃそれ。
そんなもののために東京に高い仕送りしてくれて勿体ないと思ってくれないの!?

わかってもらえない悔しさ、社会の意識に絶望でした。

アウターデザインからインナーデザイナーに移った頃、インポートが珍しかった頃で、自腹を切ってヨーロッパの下着屋をめぐり。下着を買っては、研究して提案材料にしました。
最初の就職先が最高峰ブランドLa perlaと提携していたので、パリの店でもテキトーにそのことを伝えると店内の撮影も許可してくれました。

仕事先の上司や取引先の方は、自分が買ったことにして私の研究の経費にしてくれた人もいました。

当時、管理職でもないどころかフリーの雇われが、プライベートな渡航で、はい、研究材料ですとは言いにくい意識レベルだったのです。(そもそも女性下着を扱っているのに女性管理職がゼロ)

浮き沈み激しい20代、私は、母にそんな話や思いを噛み砕いて伝えることはしませんでしたし、そんな表現力もありませんでした。
また、娘にその時代に余計な苦労をさせたくないという親心であることも十分理解していましたし。
でもそれは私にとって、間違った愛情だったと思います。
否定されて否定されて心にコブが一杯できたような気がします。

私は、一緒に闘って欲しかった、どうしたら自分の能力を最大限に発揮できるか一緒に考えて欲しかったです。せめて一緒に悩んだり怒ったりして欲しかったです。

しかし、うちの家では、当時、夫婦の話に子供が口を挟むこともご法度で、距離がありました。

随分経って、母親になってからの私が、子供たちと人生について対等に語るようなことはできませんでした。

文 運営者 Sumiyo